悪魔も必要で愛すべき存在であると理解した時、あらゆるものへの恐怖と心配が消えていきました

ここ数年、私が嫌だ、嫌いだ、ネガティブだ、悪魔にとりつかれていると思う過去の知り合い、私の視界に突然、出現するのです。

相手は気づいていないと思うのですが、公的機関、道端などであの人だなと視界に入るのです。最近は特に頻繁に目にするのです。なぜ、あんな人とこんな奇跡的な遭遇があるのか、私がネガティブなのか、悪魔に魅入られているのか、これからよくないことがあるんじゃないかとか、なんかいろいろ考えましたが、先日、富士山でふんをかけられた女性へのレーネンさんの回答から、私の意識は変化していったのです。

悪魔、悪霊、なんでもいいですが、存在する以上、必要だってことだと思います。日本の人はあまり知らないかもしれませんが、欧米では悪魔崇拝が非常に盛んです。個人の利益のために悪魔を崇拝しています。最もわかりやすいのがお金です。悪魔が悪いわけではなく、悪魔のエネルギーを必要な人たちがいます。高いレベルのスピリットとコミュニケーションをするよりも、低いレベルのスピリットとコミュニケーションを望む生き方をしてるし、それをする権利がその人たちにはあります。

どれが最も得か、どうすればお金がもっと入るか、もっと人に対して力を持てるか、それぞれの中に低いスピリットと共鳴するものがある以上、低いスピリットも必要とされています。それが悪いわけじゃないし、それぞれの成長過程で必要なものであり、悪いと批判、非難する必要もなく、存在する権利を愛するだけです。すべての生命がそのままでいる権利を愛する、知的な理解はしていても、本当の意味での理解、それはこの悪魔だと思っている人との経験を通して与えられました。悪魔だと私がレッテルを貼ってた人から私は成長させられた、何が悪魔なんだか天使なんだかわからなくなりました。

存在するすべてがいい悪いはなく、必要だから存在するし、裁く必要も批判、非難する必要もない、存在する権利を愛する、ただ、私には必要ではない、関わらないと本当の意味で理解した時、私が悪魔だと思っていた人との遭遇は消えてくと同時にいろんなことを恐れる、心配するというものが私から消えていきました。悪魔でさえ愛すべき存在であり、必要だから存在する、必要だから起きる、それを前よりももっと包括的に理解したんだと思います。私たちは怖がるように、心配するようにとすり込まれている、本当にそうだと思います。怖がるもの、心配するものなんて本当は存在していない。

もし、また遭遇することがあってお互いに気づくことがあれば、こんにちはだけで済む気がします。そこに何の反応もなく。

伊藤仁彦