「私は、準備ができています」が機能しないのを知りました

今年になってから、右の足首が痛く、運動するのを止めたり、始めてしばらくするとまた痛くなったり、同じ状態が続いていました。運動していたのは準備のためです。「私は、準備ができています」と昔レーネンさんが言っていたことであり、何があっても、何が来ても対処する準備のためでした。そして、他人にも「常に準備をしておくことが大事」みたいなことを言ってました。私の場合、準備ができているは運動をして軽やかにしておくことでした。

あまりにひどいのでみゆきさんに相談すると、準備体操のように右足だけをぐるぐる回しているけどと言われ「そう、今は何があっても、何が来ても対処できる準備の態勢をしているんだよね」と伝えました。今、いろんな旅行を計画してもなんとなく違うと感じてキャンセルしちゃうし、こうしよう、ああしようと思っても全体で反応しないと動けないというのはわかっていました。準備していても、していなくてもその時に瞬発的に体が反応するかはわかっていたのに。

逆に今、これだというものはわかります。今の私は何が正しく、何が間違いであるとか、どうあるべきとか、何に従うべきかとかわかりません。しかし、私が情熱を持って反応するのは反体制的な話、過去の崩壊と打倒です。これ、私全体が本当に好きなことなんだと明確に私を知りました。私のスピリットがいなくても私が反応することはこういうことでした。友人に電話しなくちゃと強く感じ電話すると友人は大変な状況だったり、だから何だってことなんですが、今は大変な状況と本人がただ伝えてきたのをキャッチしたということでしょう。

曖昧でなんとなくみたいなものではなく、こうだ、こうしたいという明確なものです。以前と違うのは、キャッチしたものを受け取り、やることで得られる結果のご褒美や次につながるかどうかがないということです。今やるんだってことです。レーネンさんのところに数年前に来ていた宇宙人たちも結果は別に気にしないのを見ていたので、こんなものだと受け入れられます。宇宙ってそんな風に成り立っているのでしょう。やってみてダメなら終わり。結果をコントロールしようとする、結果に輝くもの、よりよいものが待っているという期待は地球的なものだなあと。

私の大切な犬たちが亡くなったことを知って、いろんな人たちが頼んでいないのにいろんなアドバイスをしてくれますが、私にとっては本当に迷惑です。「あなたに感謝している」とか、「なるべく早く生まれ変わる」とか、もし、この子だって私全体でわかる子に出会えば飼うでしょうし、そうじゃないなら飼うつもりはありません。「これですか?あれですか?」なんて誰にもたずねません。そのくらい、これだっていうのは今は強烈です。これだっていうのがないなら、別に何もしなくていいのではないでしょうか?

昔の癖、思い込みで私は準備をしなくちゃいけないと思っていました。「準備ができています」という態勢を構築しなくちゃいけないと思っていましたが、それは今では計画であり、自分を信頼しないということなのでしょうね。ある瞬間にこれだというものに突き動かされるからです。自分の中から出て来るからです。外のスピリットからのものではないからこれかな?あれかな?なんて悩みません。今日はこれを食べる。こっちに行く。これをする。これを買う。

いろんな思い込み、すり込みが今もあります。準備なんてしなくていい。その時が来たらやるっていうその信頼だけを頼りにしたら痛みは去って行きました。痛みが実現するのも早く、去るのも早い。

スピリットがいた時とはまた違います。調整はすべての人に今、必要です。右足の痛みの原因がこんなことだとは思いもしませんでした。みゆきさんに客観的な意見をもらってください。数千年、数万年続いたルールが変わっただけではなく、未知のさまざまな状況の中、調整が大事です。

伊藤仁彦